ニューヨーク生活1年目

ニューヨークに引っ越してからの話をまた少ししますね。

年長さんの冬にニューヨーク州のイーストチェスターという町に引っ越しました。
日本で言うと、大田区みたいなところでしょうか…

アンハッチンソンスクール Anne Hutchinson Schoolという現地の小学校に入りました。
その初日の話は、以前ここでも少し触れましたね。
1984年当時はまだ、この学校には日本人がほとんどいなくて、2人の日本人男子がいただけ。
1人はたまたま同じ学年で、少し英語が話せた。もう1人はひとつ下の学年だった気がします。

毎日みんなが何を言っているのか分からない中で過ごしていて、悶々としていたのですが…
その同じ学年の日本人男子が何かと今で言う”マウント”をとってきたんですよ。
「おれ、英語話せるから」的な。
なので、私が訳わかってないことをいいことに、いじめてきたんです。
言ってもいないことを吹き込んだり(何を言ってるか分からないけど、空気で感じる)

向こうでは、子どもが誕生日のときに、その子の親がクラス人数分のカップケーキ等を作ってきて、
うちの子をみんなで祝ってください~!って学校に持ってくるんです。
私はみんなの動きを見ていて「あ、自分のところに来たら1つもらっていいんだな」って思って待ってて。
でも、次だ!ってタイミングで例の男子が英語で何か言ったら、私の上をそのトレーが通り過ぎていって、となりの子へ行ってしまった。そして、その男子はニヤニヤしてるんです。(40年経った今でも覚えてる…食べ物の恨み…)
そのときに、私はすごーーーくムカついたことも、鮮明に覚えてます。
そして、その日、家に帰ってすぐ、母にこう言ったんです。

「おかあさん、わたし英語の勉強する。ペラペラになって見返してやる。家庭教師つけて!」

年長さんなのに、なんて生意気な!負けず嫌い!
とにかく悔しかったんですよね、いろいろ好き勝手に言われるのが。
なので、そこからめちゃくちゃ勉強しました。英語もだけど、日本語も…習字も土曜日の日本人補習校も、日本人の塾も、ピアノも、本当に毎日いろいろやってました。
とても優しくてキレイでフレンドリーな家庭教師の先生に出会えたのも、幸運でした。
おかげで、どんどん英語が上達して、あっという間に、ペラペラのペラッペラになりました。
日本人の女の子がいなかったのも、ラッキーでした。いたらきっと、日本語でつるんでしまって、英語から逃げていたと思います。

1年生に上がったときには、現地のみんなと何不自由なく英語で話せるようになっていたので、例の男子も何も言えなくなり…逆にすごくおとなしくなっていました。私のリベンジ成功です。
もともと陽キャだった私には、アメリカの空気はとても合っていたようで、どんどん生き生きしていきました。そこで1人、日本人の女の子も転校してきたので、さらに楽しい学校生活の始まりです。
その子は、私を通して現地の子たちとも遊んだり話したりして、英語がペラペラになりました。
でもそのあとから入ってきた日本人たちは、日本人だけで行動するようになり、あまり英語を話せなくても学校生活に困らなかったので、英語が話せないまま日本に帰国する子もいました。もったいないですね。

そういう意味でも、私はタイミング的にラッキーだったと思います。
この4年半のニューヨーク生活のおかげで、日本に帰ってきてからも、今も、英語を忘れることなく過ごせています。

「帰国子女なんだ~!じゃあ楽して英語覚えられてラッキーだったね!」
と言われることが、多々あったんです、日本に帰ってきてから。特に、大人たちからね。
でもね、全然ちがう。全然楽なんてしてない。
本来なら、みんなが何も気にせず楽しく遊んでいる、小学校時代に、めちゃくちゃ勉強したんです。
悔しい思いをしたり、当たり前にある人種差別を感じたりしながら、戦ったんです。
知らない世界に、自分の意志ではなく連れて行かれて、そこで生きていくために必死だったんです。
「留学したーい!」って自分の意志で行く留学とは違うんです。
その「楽でいいね!」って言葉は、言われたらすごく嫌な気持ちになったことを、今でも覚えています。


今なら、そんな深い意味で言った言葉じゃないんだろうなって思えるんですけど。
思春期の頃には、そうは思えなかったんですよ。日本に帰ってきてからも、いろいろ本当に大変だったので。
当時はまだバイリンガルwelcomeの時代ではなかったし、ハーフとかも全然いないし、外国人も少なかったし…
そのあたりの話も、またそのうちに。

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